あの後、寝付ける筈もなく、刻々と時は過ぎて朝がやってきた。
いつもと変わりない朝が。
昌浩は言うまでもなく、寝不足だった。
未だすよすよと気持ちよさそうに眠っている物の怪を見ると、小さく溜め息を吐く。
「起きるかな」
そう呟き、身体を起こすと着替えを始めた。
もちろん、物の怪からは見えない位置に移動してから。
コンコン。
しばらくすると、戸を叩く音が聞こえた。
昌浩は戸を叩いた人物が誰であるのかわかっていた。
きっと、彰子だ。
ちょうど着替えを終えたばかりだった昌浩は引き戸の方へと近付いた。
「おはよう、彰子」
戸を開けながら笑いかけると、そこにいたのはやはり彰子だった。
昌浩を起こしにきたのだろう。
彰子の顔は、きょとんとしていた。
てっきり寝ていると思っていたので驚いた、という感じだ。
「おはよう昌浩。早いのね」
「うん、なんだか目が覚めちゃってさ」
気を取り直したように笑いかける彰子に、昌浩は返した。
「そうなの。それじゃあ私は露樹様の所へ戻るわね」
そう言って、彰子は露樹の手伝いをしに戻っていった。
彰子の背を見送っていた昌浩は、姿が見えなくなると共にホッと息を吐いた。
良かった……変に思われなかったみたいだ。
彰子は以外に鋭いところがある為、昌浩は気付かれはしないかと心配していたのだ。
だが、それも杞憂だったらしい。
昌浩は安堵したように、固かった表情を少し緩めて自室に戻った。
それでも気は抜かないようにと、自身に言い聞かせて――。
『隠し通す』
それが、俺の出した結論。
どうすれば良いかは、まだわからない。
わからないけど、それでも俺は産みたいと思った。
紅蓮と俺の子供。大好きな人の子が、今俺の中にいる。
それを、すごく嬉しいと思うんだ。
嬉しくて、例え反対されたとしても、産みたいと思ったんだ。
産み月が近付いてくれば、隠し通せない。
そんなことはわかっているけど、せめて隠せなくなるまでは、黙っていよう。
紅蓮やじい様、父上や母上に知られたとき、なんと言われてもいいから。
それまでは何も言わないでいようと、そう決めたんだ。
だからこれは、誰にも知られてはいけない、俺だけの秘密――。
「昌浩殿、これをあちらに」
「はい」
「あぁ、こちらもお願いして宜しいかな?」
「はい、わかりました」
昌浩は現在、陰陽寮にいた。
昌浩はいつもと変わりなく出仕し、直丁の仕事をこなしていく。
「あ、もっくん。そこ開けて」
「おまえなぁ、量が多いんだったらわけて持つとか、いろいろ工夫をしたらどうなんだ?」
積み上げられた書物を持ち、前も見えない昌浩に、物の怪は呆れたように言いながらも戸を開けてやる。
「だってさ、一度で運べない量じゃないんだし、何回も行き来するなんて面倒じゃないか」
昌浩はけろりと答えて書物を片していった。
物の怪はそれを見て、深く溜息を吐いた。
言っても無駄だと悟ったのだろう。
「なんだよ、もっくん」
昌浩は、そんな物の怪を見て、不思議そうな顔をした。
物の怪が更に溜め息を吐いたのは、無理もなかった。
夜も更けた頃、昌浩は物の怪と共に自室にいた。
「今日は夜警、行かないのか?」
「うん、ちょっとね……」
物の怪の問いに、昌浩は言葉を濁し答える。
邸に帰った後、いつもならば止めても外に出向こうとする昌浩は、いつまで経っても外に出ようとしなかった。
もちろん、子どもの為だった。
昌浩はその手の知識に長けているとは言えなかったが、全く知らないという訳でもなかったのだ。
いつもといっても過言ではないくらい良く怪我を負っている自覚のある昌浩は、できるだけ危険に身を晒さないようにしようと夜警を控えた。
だがそれは、物の怪からすればおかしなことだ。
「具合でも悪いのか?」
そう思うのも、仕様がないことだった。
「え、大丈夫だよ。ほら、熱もないし」
ギクリと反応しかけた昌浩は、無理矢理笑顔を作って言う。
「そうか……?」
「うん、なんともないよ」
まだ疑っている物の怪に、内心冷や冷やしながらも、昌浩は誤魔化そうとした。
だが、やはり騙されてはくれないらしい。
「昌浩」
ふいに、高い声ではなく、低く、甘く響く声で呼び掛けられた。
昌浩は、その心地よい声にピクリと反応する。
先程までそこにいた物の怪は、今は騰蛇の姿へと転じていた。
心配そうな顔で、昌浩を見つめている。
「紅蓮……」
呟き、昌浩は泣きそうになった。
なんで、もっくんのままでいてくれないんだよ――。
昌浩は、全てを曝け出したくなった。
決意したことなど捨てて、隠していることを、全て話してしまいたいと、そう強く思った。
「本当に、なんでもないのか……?」
優しく問い掛けられ、昌浩は口を開きかけた。
しかし、それは音を発することなく、また閉じられる。
駄目だ、言えない……。
言いたいけど、言ってしまいたいけれど。
言ったら、この子はどうなるの?
受け入れて貰えないかもしれないのに、言える訳がないじゃないか。
昌浩はどうすることもできなくて、ただふるふると首を横に振ることしかできなかった。
すると、ふわりと柔らかく抱き締められた。
温かくて、力強い腕。
――騰蛇だ。
「言いたくないのなら、言わなくてもいい。俺は、何も聞かないから」
その優しさに、泣きたくなった。
何も言えないのに、黙っているのに、無理に聞こうとしない騰蛇の優しさに、涙が出た。
昌浩は、騰蛇の胸で泣き続けた。
騰蛇は、そんな昌浩をずっと抱き締めていた。
「ゴメンね、紅蓮」
しばらく経ち、落ち着いたのか、昌浩は鼻を啜りながら言った。
「気にするな」
そう返し、騰蛇は昌浩の頭を撫でる。
昌浩はその心地よさに少しの間目を瞑り、それから真っ直ぐに騰蛇を見据える。
「あのね、紅蓮。俺の口からは言えないんだ。……今は、言えない」
「そうか……」
「うん」
済まなそうに頷く昌浩に、騰蛇は苦笑する。
「まだ言えないのなら、言える時がきたらでいい」
「……、うん」
ゴメンね、紅蓮。
本当は言わなきゃいけないんだよね。
この子は紅蓮の子どもでもあるのだから。
紅蓮は優しすぎるよ。
何も、言えないのに。
何も言わない俺を、紅蓮は甘やかしてくれる。
それに甘えてはいけないと、そうわかっているのに、それでも、今だけはと思ってしまう。
隠し通せなくなるまで、黙っていようと決めた。
そう決めたのに……。
それまで、俺は黙っていられるだろうか。
紅蓮の優しさに触れる度に、衝動的に言ってしまいたいと思う。
隠し通すと決めたのに、それでもその衝動を抑えられないかもしれない。
紅蓮は受け入れてくれるかもしれないけど、でも、周囲の反応は?
そう考えると、恐かった。
衝動のままに言いたい気持ちと、恐いと感じる心。
どっちに従えばいいのかなんてわからなくて、でも、最期の一歩で引いてしまうんだ。
だから、まだ黙っていたい。まだ、恐い。
ゴメンね、紅蓮。
心の中で謝って、昌浩は目を閉じた――。
朝餉の最中、昌浩は気分が優れなかった。
何故だか、胸がムカムカとしていたのだ。
起きたときは平気だったのだが、今は少し気持ち悪い。
昌浩の嫌いなものがある訳ではない。
むしろ、本日は好きなものの方が多かったというのに。
それでも、昌浩は胸がムカムカして、今にも吐きそうな状態だったのだ。
「ウ……ッ」
今まで我慢していた昌浩は、とうとう堪えきれなくなったのか、口元を押さえた。
「昌浩、どうかしたの?」
「……ちょっと、失礼します」
彰子が問い掛けてくるが、昌浩に応える余裕はなかった。
席を立ち、部屋の外に出た途端、昌浩は吐き気を押さえられなくなった。
胃の中のものを全て吐き出してしまったのだ。
「う、げほッ……」
胃の中が空になる。
吐いて気分が楽になったのか、昌浩は少し落ち着いたようだ。
だが、昌浩は困惑した表情をしていた。
何故、いきなり吐き気を催してしまったのかと。
しばらく考えていた昌浩は、ハッとした。
ある考えに行き当たったからだ。
これは、つわりというものではないかと――。
「昌浩」
思考に集中していた昌浩は、ふいに後ろから掛けられた声に反応できない。
「え……?」
声に驚き、振り向いた先にいたのは、物の怪だった。
心配して、着いてきたのだろうか。
「もっくん……」
ポツリと、昌浩は呟く。
「昌浩、大丈夫か?」
物の怪は、昌浩を心配そうにジッと見つめている。
「うん、大丈夫だよ」
「……」
笑って答える昌浩に、物の怪は何か言いたそうに口を開きかけたが、言葉を発しはしなかった。
何も聞かないと言った手前、物の怪は聞くことができなかったのだろう。
昌浩も、それをわかっていたが、気付かなかったふりをした。
「昌浩」
戸を叩く音がした。
戸越に届いた声は、彰子のものだった。
朝方、つわりのようなものを経験した昌浩は、なんとか皆を誤魔化して、陰陽寮に無事出仕することができた。
そして、度々起こる吐き気を堪え、昌浩はなんとか直丁の仕事を終えた後、邸へと帰ってきたのだ。
正直言えば、まだ体調が良いとは言えない。
だからと言って、居留守を使うわけにもいかない。
隠し通すと決めたのは、他ならぬ昌浩自身なのだから――。
「どうかしたの、彰子?」
昌浩は、平静を装って彰子を迎える。
「あ、昌浩。あのね、晴明さまがお話があるそうなの」
「え……じい様が?」
「えぇ、お部屋に来て欲しいって」
そう言う彰子に、昌浩は何か、漠然としたものを抱いた。
昌浩は、口を引き結び、腹部にそっと手を添える。
じい様の話というのは、もしかしたら――。
この子のことなのかもしれないと思った。
違うかもしれないと、そう思いたいのに、それでもどこか確信していた。
希代の大陰陽師に隠し事なんてできるわけがないのかもしれない。
隠し通すことなど無理なのかもしれないと、そう思った。
2007.11.09.公開