「ねぇ、紅蓮?」
後ろから抱きしめられていた昌浩は、ポツリと言った。
「…なんだ?」
応える低い声に、昌浩はくすぐったそうに笑う。
「あのね、紅蓮って一応神様でしょう?だから、きっと俺よりもずっと長い時を生きるんだよね」
「あぁ…それが、どうかしたのか?」
「……紅蓮は俺が死んだ後も、生きていくんだよなって考えてたんだ」
昌浩を抱きしめている騰蛇の腕に、若干力が入った。
「おまえがいなくなったら、俺はどうなるんだろうな…?」
そんな未来が来ることを恐れているのか。
その声は、少し震えているようだ。
それに気づいた昌浩は、自分を抱いている騰蛇の手にそっと触れる。
「俺は人間で、紅蓮は神様。それは変えようのない事実なんだよね。
俺は紅蓮より早く死ぬし、紅蓮は俺が生まれるより遠い昔から生きてきたように、俺より長く生きなければならない」
「昌浩…」
その声は、それ以上は言わないでくれと言っているように聞こえた。
昌浩はそれに気づいていたが、それでもやめなかった。
「どうしようもないことだってわかってたけど、すごく悩んだ。
でもね、それでも俺は紅蓮が好きなんだ」
騰蛇のほうに向き直ると、その体をふわりと抱きしめた。
「紅蓮が好きだから、じい様よりもずっと、ずっと長く生きてやるって決めたんだ」
「…晴明よりも?」
「うん。あの、喰えない狸じじいよりもね」
騰蛇の驚いた気配を感じた昌浩は、おどけた口調で返した。
抱きしめていた手を緩めると、騰蛇を見上げる。
見上げた昌浩の顔は、優しく微笑んでいた。
「紅蓮を独りにしたくないと思うから長生きしたい。
さすがに紅蓮と同じくらい長生きはできないけど、紅蓮が独りになる時が少しでも短くなるように。
少しでも長く一緒にいられるようにね…」
「…そんなこと考えてたのか…」
騰蛇は昌浩のハッキリとした意思に驚き、言葉をもらした。
騰蛇の様子に、昌浩はクスリと笑う。
「…あのね、紅蓮にとっての愛することってどんなこと?」
「愛すること…?」
「そう。…教えてくれる?」
昌浩は騰蛇を見上げたまま、首を傾げた。
そんな昌浩を見て小さく笑うと、考え始める。
昌浩は真剣に考えている騰蛇を、黙って見ていた。
「ずっと、隣にいること……」
騰蛇は、ポツリと呟いた。
「…紅蓮…?」
「俺にとっての愛することは、昌浩の隣にいること…だな」
騰蛇は昌浩の頭を撫でながら言った。
「俺の隣…?」
「あぁ」
「…そっか…」
昌浩は嬉しそうに微笑んだ。
「で?」
「…え?」
「昌浩はどうなんだ?」
騰蛇は、先程昌浩がした質問を聞き返した。
昌浩は考えるように視線を彷徨わせると言う。
「俺にとっての愛することは…」
「愛することは?」
「……生きること」
「生きること…?」
愛することは生きること。
騰蛇には、昌浩の言葉の意味が掴めなかったようだ。
「そう。俺は紅蓮が好きだから、長生きしたいっていったよね?
だから、少しでも長く生きることが、俺にとっては愛することなんだよ」
昌浩はほんのりと頬を赤く染め、照れたように笑った。
昌浩の真意を理解した騰蛇は微笑み返すと、自身の唇でそっと昌浩のそれに触れた。
きょとんとした昌浩は顔を瞬時に真っ赤にしたが、騰蛇を先程よりもぎゅっと抱きしめた。
辺りは暗い夜空。
二人を見守るのは、星と月の光だけだった――。
「昌浩、危ない!!」
「…へ?うわああぁぁぁぁッ」
昌浩は階段をゴロゴロと転がり落ちた。
数刻後の安倍邸のある一室では、物の怪と晴明が座っていた。
「すまない、晴明…俺の失態だ」
「紅蓮、あまり気にするでない。普通足を滑らせて落ちるなんて、予測できないじゃろう」
「だが…ッ」
隣に…すぐ近くにいたのに、守れなかった。
昌浩が転がり落ちるのを助けられなかった。
自分を責める物の怪を横目で見て、晴明はフゥと溜息を吐いた。
昌浩は、晴明と物の怪が見守る中、眠っている。
階段から落ちた後に気絶してから、未だ目覚めていないのだ。
見る限りたいした怪我もなさそうなのだが、気絶したまま。
二人は…否、晴明と物の怪は、そんな昌浩が目覚めるのを待っていた。
「ん……あれ…?」
しばらくして、昌浩が目覚めた。
「「昌浩!!」」
物の怪と晴明は呼びかけるように言った。
昌浩はそれに気付くと、そちらを向く。
「……」
困惑した表情で黙ったままの昌浩に不安を覚えたのか、物の怪は口を開く。
「…昌浩…?」
その言葉に対し昌浩が発した言葉は、信じられないものだった。
「あの、あなたたち…誰ですか?」
いつも隣にいた物の怪に向かって、誰と聞く。
自分の祖父である晴明に向かって、誰と問うのだ。
普通の状態である訳がない。
「……それより、自分のことはわかるかのう?」
と、晴明は聞く。
物の怪は、あまりのことに声すら出すことができない。
「自分のこと…ですか?」
「そうじゃ。例えば名前とか、年齢とか」
「名前……?俺の名前は…」
呟くように考える昌浩に、晴明の握った拳が震えた。
「昌浩……?」
物の怪と晴明は、ホッとする。
やはり、ただ混乱していただけなのか。
そう思った矢先。
「さっき、俺のことそう呼んでましたよね。俺は昌浩っていう名前なんですか?」
「……そうじゃ…」
晴明は握りしめた拳に、更に力をこめた。
落ちた時に頭を打ったのだろうか。
昌浩は、記憶喪失になっていたのだ。
自分のことも、祖父である晴明のことも、そして、物の怪のことも。
何一つ、憶えていない。
「おまえの名前は安倍昌浩。わしは、昌浩の祖父じゃ」
「…祖父?」
「そうじゃ、名は晴明という。わしのことはじい様と呼んでくれ」
「はい、じい様」
昌浩は普段にないくらい素直に返事をした。
一つの会話を終わらせると、晴明は物の怪に視線を向ける。
物の怪は記憶喪失という事実を受け止めたくないのか、昌浩から離れたところで視線を逸らしたまま体を強張らせていた。
そんな物の怪を見て、晴明は一瞬辛そうな表情をした。
だが、晴明は物の怪に優しく話し掛ける。
「ほれ、紅蓮…。おまえもそんなところにいないで、こっちに来なさい」
そんな言葉に促されて、物の怪はしぶしぶと元いた位置に戻る。
晴明は、そんな物の怪を持ち上げると言う。
「これは紅蓮という。おまえは、この姿の時はもっくんと言っていたなぁ」
「晴明…ッ、おろせ!」
「…この姿?」
物の怪を言葉を無視した晴明は、昌浩の疑問にこたえる。
「これはな、本当の姿ではないのじゃよ」
晴明は物の怪をおろすと、目で本性に戻れと言う。
物の怪はそれを見て、躊躇いながらもその通りにする。
次の瞬間、緋色の闘気が迸った。
物の怪が本来の、騰蛇の姿に戻ったのだ。
「十二神将、騰蛇だ」
「騰蛇さん…?」
昌浩がそう呼ぶと、騰蛇は一瞬痛そうな顔をした。
「…おまえは紅蓮と呼べ」
そっけなく言うと、物の怪の姿に戻って晴明の隣に伏せた。
「はい、わかりました」
そんな物の怪を見て、昌浩は微笑んだ。
その日の夜、昌浩は一人縁側に立っていた。
傍から見たら、きっとこの上なく不安気に見えたことであろう。
じい様に紅蓮さん。彰子に他の神将たち。それから、父上と母上。
みんなが心配してくれてるのはすごくわかる。
だけど、自分は本当に安倍昌浩なんだろうか。
確証なんてない。
だって、自分は何も憶えていない――。
「そんな格好でいたら、風邪ひくぞ」
背後から声がした。
昌浩は振り返り、その存在を確かめる。
「紅蓮さん」
そこにいたのは、物の怪だった。
紅蓮と呼ばれた物の怪は、目をぱちくりと瞬かせる。
「…この姿のときは紅蓮と呼ぶな」
「……?」
昌浩は、訳がわからず首を傾げた。
「…あぁ、じい様が俺はもっくんと呼んでたって言ってましたね」
昌浩は思い出したように言った。
だが、その後すぐに問う。
「でも、俺がもっくんと呼んでも…いいんですか?」
「いいから、その敬語もやめてくれ」
物の怪は、本当に嫌そうに言った。
「…うん、わかった」
昌浩と物の怪は、沈黙を守っていた。
しばらくしてそれを破ったのは、物の怪だった。
「なにを考えてたんだ?」
「え…?」
「さっき一人でここにいたとき、なにか考えてただろう?」
昌浩は合点がいったのか、応える。
「記憶がないと、こんなに不安になるもんなんだなぁって思ってたんだ」
「やっぱり、不安か…?」
「うん、俺は本当に昌浩なのかなって考えると、ちょっとね」
「そうか…」
物の怪は少し辛そうに言った。
「昌浩が記憶喪失になったのは、俺のせいなんだ」
「…もっくん?」
「昌浩の隣にいたのに…すぐ近くにいたのに、助けられなかった」
物の怪は自分を責めるように言った。
昌浩は、そんな物の怪が痛そうに見えて、しょうがなかった。
「でも俺が記憶喪失になったのって、階段から落ちたからだろう?そんなの、もっくんのせいじゃないよ。
落ちる俺が悪いと思うし」
「だが…」
「もっくんのせいじゃない。それに、もっくんは助けてくれようとしたんだろう?
だから、ありがとう」
昌浩は物の怪の声を遮り、優しく微笑んで言った。
「…おう、どういたしまして」
物の怪はそんな昌浩を見て返した。
そのまま星を見上げていると、物の怪はふとこの前のことを思い出した。
黙って星を眺めている昌浩をちらりと見ると、口を開く。
「なぁ、昌浩」
「…なに?」
「今のおまえにとって、愛することはどんなことだ…?」
愛することは生きること。
そう言ったのは、記憶を失う前の昌浩だ。
果たして記憶を失った昌浩は、なんと答えるのだろうか――。
「愛することは……生きること……?」
昌浩が呟くように答えた。
「昌浩、今なんて…」
「うん…今なんか、『生きること』って考えがフッと浮かんだんだ」
なんでかなぁと悩む昌浩を見て、物の怪は驚きを隠せない。
「でも…うん、愛することは生きることだね。俺もそう思う」
一人納得する昌浩に、物の怪は言う。
「おまえは昌浩だよ。おまえが不安に思っていても、誰が何を言おうともな」
「もっくん…?なに、いきなり」
「記憶を失う前の昌浩も、同じことを言ってたんだ。記憶を失っていても、おまえは昌浩なんだよ」
だから不安になることはないんだ、と言った。
昌浩はそんな物の怪に驚き、それから微笑んでありがとうと言った。
「あ…ねぇ、もっくんにとっての愛することってなに?」
「…ずっと隣にいること」
昌浩の側に、隣にいること。
さすがに記憶のない昌浩には言えなかったのか、物の怪は昌浩の名を出さなかった。
「……」
「…どうした?」
いきなり黙り込んだ昌浩に、物の怪は訝しげに聞く。
「なんか…前にもこんなこと、あった…?」
懐かしさを感じたのか、昌浩は悩み困惑しながらも呟く。
物の怪はそれを見て苦笑すると、本来の姿を顕す。
昌浩はそれに気づいて、その名を呼ぶ。
「紅蓮…さん?」
「さんはいらない」
優しく言うと、昌浩をそっと抱きしめる。
「…紅蓮…?」
「嫌じゃ、ないか?」
騰蛇は恐る恐る聞いた。
それに対し、昌浩は首を横に振る。
「大丈夫だよ。なんか、暖かい…」
そして、騰蛇に身体を預ける。
「もっくんじゃなくて、紅蓮のときだったんだね。愛することの話をしたのは」
「…思い出したのか?」
「ううん、ただそう思っただけ」
昌浩はポツリポツリと、呟くように話す。
「ねぇ、紅蓮。俺、眠くなってきちゃった…」
「寝てもいいぞ」
低く優しい声でそっと囁いた。
昌浩は、そのままそっと眠りに落ちた。
スースーと寝息が聞こえる。
記憶がなくても、互いが愛し合っていることを心が忘れていないのか。
昌浩は安心した様子で寝ている。
そんな昌浩を見て騰蛇は微笑み、そっと頬に口付ける。
記憶を失っても、昌浩を愛する気持ちは変わらない。
騰蛇は眠っている昌浩をそっと見ていた。
辺りは暗い夜空。
二人を見守るのは、星と月の光だけだった――。
2007.03.移転に伴い一部修正しました。