昌浩は今、自分の家である安倍邸にいた。
自室にいる昌浩は出仕を終えた為、既に着替えをすませている。
直衣を脱ぎ捨て、普段彰子が着ているものとなんら変わりのない服装へと。
それは男にとって、普通ならば一生縁のない格好であろう。
だが、昌浩に関してはそれが当てはまらないのだ。
安倍邸を一歩出れば、少年と認識されている昌浩。
その少年は、本来ならば出仕することなどないはずの、歴とした少女なのだから。
「もっくん、もう入ってきてもいいよ」
既に着替えを終えた少女は、戸に遮られた自室の外へと声をかけた。
それと共に入ってきたのは、猫のような体躯に兎の耳を持ち合わせた、少女に言わせれば物の怪と表現される生き物だ。
勝手に物の怪と分類されている生き物は、少女の姿を見て感嘆の声をあげる。
「毎度のことだが……化けるよなぁ……」
「ちょっと、もっくん。それって何が言いたい訳?」
「あぁ、男装のときは男なのに、今はちゃんと女に見える」
「俺、女なんだけど」
物の怪の言葉に少しムッとしたように口を尖らせ、少女は言い返した。
「コトバ使いが戻ってないな。……昌浩って呼ぶぞ?」
「え……それは嫌。私が悪かったからやめて」
焦ったように言うと、物の怪は満足したように少女の名を呼ぶ。
「蓮姫」
名前を呼ばれた少女は恥ずかしそうに、だが嬉しそうに微笑んだ。
安倍蓮姫。
それは、昌浩の女としての本来の名前だ。
だが、その名を呼ばれる事は滅多にない。
それこそが、隠されたもう一つの真実なのだから――。
晴明の後継とされている蓮姫は、陰陽師となる為に男装して出仕している。
物心つく以前より、安倍邸を出るときは男装していた蓮姫。
その頃は一歩外に出ると昌浩と呼ばれる理由がわからず、名前を呼ばれる度に首を傾げていた。
数年経ってその理由を知ったとき、蓮姫は邸の中でも昌浩と呼ばれるようになった。
その時まだ幼かった蓮姫は、昌浩という名の仮面を被ったのだ。
おとこのこみたいにならなくちゃ。わたしはおんみょうじになるんだから。
じいさまのように、じいさまのちからになれるように。
男みたいに振る舞わなければいけないんだ。俺は、陰陽師になるんだから。
俺は、昌浩なんだから――。
少女は目に見えぬ重荷を背負った。
本当の名前を呼ばれることもなく、少女は少女でいる時も、少年という名の仮面を外せなくなっていった。
まるで蓮姫という少女など、始めからいなかったかのように。
少女はわかっていた。
自分の名前が呼ばれないのは、外にいるときに誤って口にしてしまわない為であること。
陰陽師になる為に、昌浩である為に必要なことを。
だが、少女はあるとき気付いてしまった。
昔は視えたはずのものが視えないことに。
陰陽師になる為に必要不可欠なものを失っていることに。
陰陽師になれない。
じいさまの後継となる為に、男として生きてきた。
今更、女として生きていく訳にはいかないのだ
それなのに、自分は一体どうすればいいのか。
少女は重圧に耐えながら、独り苦しんでいた。
陰陽師にならないという手はないかと考えたりもした。
そんな時だ、物の怪が少女の元へ現れたのは。
少女の苦しみを、言わずと理解してくれた。
本当の名前を呼んでくれた。
そして、傍にいてくれた。
蓮姫としての居場所をくれたのは、物の怪。
蓮姫を優しく抱き締めてくれたのは、騰蛇。
少女は、安らげる場所を見つけたのだ。
「ねぇ、なんでもっくんは、昌浩でいる時も蓮姫って呼ぶの?」
少女は物の怪を抱き締めながら問う。
「なんでって、昌浩って呼んでほしいのか?」
「ううん、蓮姫のがいいけど」
なんでかなと思って、と言う少女に、物の怪は考えながら言った。
「そうだな……。例え男の姿でいたとしても、蓮姫は女だからな。」
「……さっき男に見えるって言ったくせに?」
根に持っているのか、少女は拗ねたように口を開いた。
物の怪はそれに苦笑し、さりげなく少女の腕から逃れる。
少女が不満を抱いたのも束の間、次の瞬間には物の怪の姿は無くなっていた。
その代わりに現れたのは、騰蛇。
少女は、先程まで抱き締めていたその状態が、今はその逆。
騰蛇に抱き締められる形になっていた。
「紅蓮……?」
騰蛇は不思議そうに見上げてくる少女を見て言う。
「昌浩として出仕できているんだから、周囲には男として見えているんだろう?」
「……。そりゃそうだけどさ」
不満そうな表情で応える少女に、騰蛇は優しく微笑む。
「だが周囲が男として見ていても、俺にとって蓮姫は女でしかない。例え男の格好をしていても、蓮姫は蓮姫だ」
その言葉に、少女は顔を赤らめながらも微笑み返す。
「紅蓮がいるから、私は蓮姫でいられるんだよ」
だって紅蓮は、私が私でいられる、唯一の居場所だから――。
騰蛇はそれを聞いて微笑み、少女の頬にそっと唇を落とした。
少女は驚きながらも、お返しとばかりに騰蛇の頬にキスをする。
面食らった騰蛇を見て、少女は悪戯が成功したかのように笑った。
少女の心安らげる場所。それは騰蛇の隣。
そして、騰蛇の安らげる場所もまた、少女の隣なのだ。
互いが互いの居場所になり、傍にいる。
それはとても自然なことで、幸せなこと。
その幸せを感じながら。
二人は見詰め合い、そして口付けを交わした。
2007.03.移転に伴い一部修正しました。